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CommonNoun’s diary

予習をする。原典にあたる。

『本好きの下剋上』第三部を読んだ

感想 数学以外全部

 3,4 日前には読んでしまっていましたが読書報告です。

 

 前回

commonnoun.hatenadiary.jp

 読んだもの

ncode.syosetu.comの第三部

 

 以下スポイラがある可能性あり

 

 第三部 領主の養女です。領主の養女としてのマイン改めローゼマインが描かれます。ずいぶん出世しましたね。彼女は貴族としてやっていきながら聖女として祭り上げられつつ神殿長の務めを果たし、本命の本作りも続けます。大忙しですね。この部で大きな目的のひとつとなるのが、彼女の虚弱体質をよくする薬の材料採集です。

 

 魔術的な薬で、材料も四季の各々で魔力のある素材を薬の服用者が手ずから獲得しなければなりません。その中では魔物と戦う(騎士団が)こともあり、ファンタジーの様相を呈してきます。

 

 特に印象に残ったのはやはりというか、神官長フェルディナンド様ですかね。かわいい。この部では先の部に比べて彼の内面について掘り下げられていきます。いくつか引用しましょう。

「大丈夫だ。私のことを好く人間は少ない。嫌われているのが普通なので、特に気にしなければ良い」

本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ - 収穫祭の準備

 彼は美形できわめて優秀で、加えて不幸な生い立ちを持つためか、貴族のマダムたちに人気があり幸せになることを願われているのですが、彼に言わせれば"好く人間は少ない"そうです。まあでもちょっと共感できる気もします。

 

 一般に優秀で自己評価が低い人は「誰にでもできること」の基準が高く、それができない人へのあたりが強い傾向があると言われます。

 

 神官長の場合"勉学が苦ではなく得意であった"とは言っていて能力面で自身や他人を正当に評価するのは普通にできるし表向き卑屈なところは見られません。それでも自身にも他人にも厳しいし、自分を大切にしておらず、どこか感覚として上のようなものをいくらかもっているように感じられます。これは本編から読み取ったものというよりは私の憶測です。

「領主の子として生きていくならば、努力し、結果を出すのは当然だ。結果を残せないような役立たずなど、領主の子ではない。養育にかける費用が無駄だ。無能は生きている価値もない。役立たずの領主の子など城に置いておくことはできないのだから、放り出されたくなければ、それなりの成果が必要に決まっている」

…………

「フェルディナンド、いくら何でも、その言い分は7歳の子供に厳しすぎるだろう」

 ジルヴェスターの言葉に、神官長は笑みを濃くする。それは嘲りと失笑が混じったような笑みだった。

「何を言っている、ジルヴェスター? これは私が洗礼式のために城へ連れて来られた7歳の頃から、其方の母親にずっと言われ続けてきたことだ。厳しすぎる? おかしなことを言うな」

本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ - 入れ替わり生活 後編

 この辺は前後も本当によくて好きです。優秀で愛を知らない人、幸せになってほしいですね*1

「あぁ、美しい。一口飲めば、その味わいの奥深さに色々な素材が使われていることがわかるだろう? それぞれの旨味が出て、引き立て合い、凝縮されてい る。それにもかかわらず、スープには何も入っておらず、底まで見えるほどに透き通っているではないか。とても高度に完成された美しさがある」

本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ - 領主とイタリアンレストラン 後編

 コンソメスープを気に入る神官長です。"非常においしくなさそう"な難しい表情で具の無いスープというこの世界の常識に反するものを食し美しいと評しています。他にも引用はしませんが固い紙でつくったハリセンを気に入ったりもします。感情が薄そうな人として描かれていただけにこうして感情を表に出しているとなんかこういいですね。

 

 神官長の話はここまでにして、気になったことの話をします。

 

 人の手で全く同じ形の文字が書かれることはありません。私が書く「あ」とあなたが書く「あ」は異なりますし私が「あ」と二度書けばその二つはやはり異なります。活字を作るということはそれらから一つの(別に一つである必要はありませんが)形を選んで彫るということです。

 

 おそらくローゼマインはグーテンベルクがそうしたように手書き文字の再現を目指したのでしょうが(印刷に映える字体を開発するほどのデザインの能力があるとは思えないので)、それでも読むに耐える字形デザインはこの作品で書かれていたようにあっさりとできるとは思えません。

 

 王羲之のそれのような規範とされる文字のセットがあれば別でしょうが特にそういうのは描かれていなかったかと思います。もっとも字のデザインについて詳しく描かなかったことでこの作品が価値を損なうということはないでしょうが。

 

 あとはアラビア文字モンゴル文字のような繋げて書くようにできている文字だったりしなくてよかったねという感じですね。

 

 文字といえばわれわれの世界では植物紙がなかった頃羊皮紙が貴重だったために文字を詰め込みつつ美しく見せるためカリグラフィが発達したと言われています。われわれの世界の西洋と異なって、一般に絵には余白を埋めるやり方と埋めないやり方があるのだと誰かが言っていましたが、絵や服飾では余白を埋めるものであるらしいことが仄めかされているこの世界においてカリグラフィはどのようであるか、植物紙と印刷技術の登場によりどうなっていくか、美麗さが求められるであろう貴族と速記が求められるであろう商人でどう異なるかなども気になるところです。この辺は絵がつく媒体に期待したいと思います(期待していいのか?)。

 

 完全にオタクみたいな記事になりましたがこの辺にしておきます。ありがとうございました。

*1:昔私について「幸せになってほしい」と言う人がいたが、彼も私のことを優秀で愛を知らないと感じていたのだろうか、私は幸せを願われるほど優れてはいないというのに